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リーゼンの歴史|細野スキークラブ((株)スカイパーク八方)平成元年11月発行の60年史より

第一章 開催への動き

(一) はじめに

第3回プログラム

第3回プログラム

争の傷跡が随所に残り、国民の誰もが傷心に沈み、物資の窮乏に喘いでいた時、八方尾根の麓・細野には村の先達によって将来への大きな夢がふくらんでいた。それは疎開中の福岡孝行を中心に、八方尾根開発計画であった。既製のものではなく、官製のものでもない、村人自身の手によって運営される、ロー カルな大回転競技会を開催し、立派な条件を備えた八方尾根を世に出そうということであった。オーストリ-で行われている、自由に参加できるダウンヒルレース・カンダハー競技のような権威あるローカル大会を開催したいというのが夢であった。八方の長大な尾根にふさわしい、リーゼン(巨大)スラローム大会の開催であった。

細野には既に、登山やスキーの先覚者による刺激があり、村人にはスキーへの理解が深められ ていたので、難しい諸問題も次第に解決され開催実現へ次第に近づいていくことができた。

(二) 白馬スキーの黎明

(大谷定雄が手ほどきを受け福岡孝行が師事した笹川速雄)

(大谷定雄が手ほどきを
受け福岡孝行が師事した
笹川速雄)

峰白馬岳と秀麗唐松岳を項点に山麓へ広がる尾根を持つ白馬村は、雪も多く格好のスキー地である。中でも八方尾根は、 その規模、雪質などの条件は日本屈指のもので絶好のスキー場として評価され、目覚ましい活況である。

この活況は、リーゼンスラローム大会誕生を契機に発展を遂げてきたといってもよく、その誕生は過去の貴重な実績の積み重ねが生んだものであるといえる。明治44年(1911)高田へ初めてスキーが導入されてから約10年を経て、大正8年(1919)細野の大谷定雄は妙高山を登った折、燕温泉の笹川速雄からスキーの手ほどきを受け、将来の登山にスキーが必要であることを説かれた。以後、 白馬村には次々とスキーの導入の歴史がある。

大正9年に慶応大学の大島亮吉が杓子岳を登り、翌大正10年には富山師範の内山数雄と燕温泉の 笹川速雄が糸魚川から白馬岳へ登項したあと大雪渓滑降の壮挙があった。 大正13年(1924)になると京大教授・高橋健治が白馬岳へ登るなど白馬館にスキー客が泊まるようになった。白馬館の松沢貞逸は飯山中学の藤沢璋三教諭を招いて蕨平で講習会を開き、細野から大谷定雄、丸山信忠らが参加した。昭和3年には「細野山岳スキー倶楽部」が生まれ黒菱小屋を建設する などの事業を始めた。間もなく「雪友会」も組織され、両者の協力によってスキーの興隆が導かれた。 その後戦争に突入し、スキーヤーの姿は無くなるが、終戦を迎えて、スキー愛好家は、八方の雪を求めて集まってきた。村人の温い人情に迎えられ、また銀シャリ(白米)が食べられるとあって細野の評判は全国へ浸透していった。終戦前後には都会からの疎開の人達が相当数住むようにもなった。

(三) 大会誕生

(第1回大会の表彰式 現 望翠荘住宅付近)

(第1回大会の表彰式 現 望翠荘
住宅付近)

細野山岳スキー倶楽部

降スキー大会の開催を提唱して八方尾根開発を勧めたのは、昭和18年(1943)細野に疎開していたスキー研究家でドイツ語学者福岡孝行である。福岡は中学時代、燕温泉の笹川速雄にスキーを学び、同じ指導を受けていた大谷定雄を紹介され、度々八方尾根で滑り、また東京帝国大学在学中に製作した映画『スキーの寵児』の撮影も八方で行い、大谷定雄、中村実らを頼むなど細野とは既に深い緑で結ばれていた。福岡の広く深い学識、豊かで暖かい人柄、優れたスキー理論と技術は村人の尊敬を集め、提唱するスキー大会開催の要因となった。福岡を中心に「細野山岳スキー倶楽部」が軸となり区が協力し、大会実現に向けて始動したのは、終戦の年・昭和20年の12月である。細野山岳スキー倶楽部の幹部の会合が、昼となく夜となく開かれたが、会議などに経験の少ない人たちには不馴れのため進行は遅れ、まとまりも遅かった。幹部宅を順に回っての会合もあったが、夜7時の開会が、午前1時に全員が揃ってようやく開会されるなど、現代感覚では想像もできない場面がしばしばあった。最も懸念されたのは、コース開拓に伴う、立木の伐採であった。所有者を訪ね伐採を頼んでも、最初のうちは「長年月を経て大きくなった木だから切るわけにはいかない」と断られ途方に暮れながら、何回も何回も根気よく頼むうち「村のためになるのなら」と漸く承諾。かえって積極的に協力する人さえ出てきた。当時、福岡を慕って集まる者の中に学校の教員が多かった。そのつがなりから大会運営のための器具等は、学校から借りて賄った。特に計時用の「ストップウォッチ」はできるだけ多く借り集めテストの結果を見て、採用使用した。

後日、福岡が碑に刻んだ詞に「南は大町 北は小谷 相よらいて」とあるように大町スキークラブ、大町南高校や小谷の各小学校の先生が、よらって(注・協力の意)の大会となった。 「白馬山麓は大町から小谷までの人たちが協力しあって開発を進めなければならない」とは、かねてからの福岡の主張であった。

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