第2章 草創期に拾うエピソード


(八) 今に残る金銭出納帳の記録簿
 大会の記録を残すため記録簿に金銭出納帳が使われた。表紙は皮張りで部厚なしっかりした、当時には高額であったと思われる立派なものであった。
 記録記載者は協議の結果、軍隊帰りで事務に堪能で達筆の丸山弥兵衛が決められたコースのプロフィールや成績順に選手名・所属・所要時間や、リーゼンバッジ取得者など詳細な記録が今も残っている。この皮張り記録簿は第21回から大学ノートに替わって引き継がれている。

(九) 三人の来賓
 第1回大会の前夜の開会式に3人の来賓があった。宇野勝房、北沢清、竹節作太である。宇野と北沢はいずれも福岡孝行の大学時代陸上競技の知友である。
 福岡孝行の陸上競技の活躍は目覚しく、学習院の中等・高等科時代、中距離ランナーとして日本陸上競技会の注目の人であった。最近一世を風靡した選手に早大の瀬古利彦がいるが、彼を指導したのは、中村清である。中村も早大在学時代中距離を走っていて、福岡とはよきライバルであり、1500メートルの日本記録は、二人のいずれかによって書き替えられると期待を持たれていた。旧制のインターハイ、インターミドルでは、800メートル、1500メートルの優勝を二人で分け合っていた仲であった。
 長野県スキー連盟の理事長・宇野勝房体育主事も東京高等師範学校を代表する陸上競技投擲競技の選手であった。
 北沢清も農大在学時代、陸上競技で鳴らした選手で、特に日本のスポーツ行政の要・文部省体育局長の要職を務めた要人である。開会にあたっての招待に快く応じ、わざわざ、稀有ともいえるローカル大会を私人として視察に来場した。

 竹節作太は、長野県飯山中学校(現飯山北高校)から早稲田大学に学び、複合選手として第2回冬季オリンピックに日本代表として活躍した選手である。また、昭和11年(1936)立教大学山岳部が日本で初めてヒマラヤに遠征、ナンダコット峰に初登頂の成功を収めたが、遠征隊員として毎日新聞社運動部から派遣され活躍した。30歳の時である。『雲表の旅』『ナンダコット登攀』などの著書がある。
 日本の体育界を治めた北沢体育局長、長野県体育の総師宇野体育主事、スキーと山の権威者竹節らの来賓はローカル大会に華を副えた。

 


 |
(c)八方尾根リーゼンスラローム大会事務局  All Rights Reserved.