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(一) 長野県スキー連盟共催とスキー列車持ち込み
太平洋戦争に突入するとすべてのスポーツは制限され、不能の種目もあったが、スキーは北方の国防上必要ということで「戦技スキー」として行われ「戦技スキー指導者」が委嘱されていた。当時は国鉄列車内にはスキーを持込めなかったが、この指導者だけには大日本体育会が証明書を発行し、持込みを許されていた。戦争が終結したものの、22年の大会開催時にはまだそのきまりが残っていて頭をかかえる心配事であった。
昭和21年秋、福岡孝行、大谷定雄の両人は、長野県庁に宇野勝房体育主事を訪ね、細野山岳スキー倶楽部が主催主管をするからと、後援を長野県スキー連盟に陳情した。偶然にも宇野主事と福岡は同じ頃学生陸上競技選手権で共に活躍した選手で、当時を語り合い、陸上競技 の話に花を咲かせた。宇野主事は大会の趣旨に賛同、長野県スキー連盟の後援を快諾した。
ついで国鉄・長野管理部旅客課を訪ね、スキーの列車持込み許可の陳情をした。受付から課長に引き合わされた所、全く偶然にも藤原哲夫課長はスキー人で(後に全日本スキー連盟公認特別指導員となった)大谷とは旧知の間柄で、ここでも懐旧談に花が咲き、難問題であったスキーの列車持込みが許可された。許可証は東京、大阪、名古屋、甲府でつくり、そこへゆけば入手できると手筈をきめてくれた。2人は、松本駅前・飛騨屋旅館に1泊、細野へ引きあげたが、難問題が解決され、一気に、準備に拍車がかかることになった。それにしても、偶然とはいえ、旧知との邂逅が成功をもたらしたとは、縁につながる幸いであった。 |