第1章 開催への動き


(第1回大会の表彰式  現 望翠荘住宅付近)

(三) 大会誕生

 滑降スキー大会の開催を提唱して八方尾根開
発を勧めたのは、昭和18年(1943)細野に疎開
していたスキー研究家でドイツ語学者福岡孝行
である。福岡は中学時代、燕温泉の笹川速雄にスキーを学び、同じ指導を受けていた大谷定雄を紹介され、度々八方尾根で滑り、また東京帝国大学在学中に製作した映画『スキーの寵児』の撮影も八方で行い、

 大谷定雄、中村実らを頼むなど細野とは既に深い緑で結ばれていた。福岡の広く深い学識、豊かで暖かい人柄、優れたスキー理論と技術は村人の尊敬を集め、提唱するスキー大会開催の要因となった。福岡を中心に「細野山岳スキー倶楽部」が軸となり区が協力し、大会実現に向けて始動したのは、終戦の年・昭和20年の12月である。細野山岳スキー倶楽部の幹部の会合が、昼となく夜となく開かれたが、会議などに経験の少ない人たちには不馴れのため進行は遅れ、まとまりも遅かった。幹部宅を順に回っての会合もあったが、夜7時の開会が、午前1時に全員が揃ってようやく開会されるなど、現代感覚では想像もできない場面がしばしばあった。最も懸念されたのは、コース開拓に伴う、立木の伐採であった。所有者を訪ね伐採を頼んでも、最初のうちは「長年月を経て大きくなった木だから切るわけにはいかない」と断られ途方に暮れながら、何回も何回も根気よく頼むうち「村のためになるのなら」と漸く承諾。かえって積極的に協力する人さえ出てきた。当時、福岡を慕って集まる者の中に学校の教員が多かった。そのつがなりから大会運営のための器具等は、学校から借りて賄った。特に計時用の「ストップウォッチ」はで
きるだけ多く借り集めテストの結果を見て、採用使用した。 後日、福岡が碑に刻んだ詞に「南は大町 北は小谷 相よらいて」とあるように大町スキークラブ、大町南高校や小谷の各小学校の先生が、よらって(注・協力の意)の大会となった。 「白馬山麓は大町から小谷までの人たちが協力しあって開発を進めなければならない」とは、かねてからの福岡の主張であった。 



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